2013.06.27
煙の檻
「ふざけんなバカヤロウ」
岩本は喫煙所で盛大な独り言を吐いた。
口から言葉がこぼれた直後、その声の大きさに自分でもはっとした。
透明なプラスチックの板に囲われた狭い喫煙スペースでは、岩本の他に五人ほどが煙を吸っていたが、その全員が岩本の方を見た。
岩本を視線を払うみたいに下を向いて首を振り、ひとつの咳をしてみせた。
白くないため息を吐いてから、それにしても、と岩本は思う。
それにしても、いつから喫煙スペースがこんなに狭くなったんだ?
そもそも十年くらい前なんか、喫煙スペースなんて言葉もなかった。
この国のあらゆる場所が喫煙所だったはずなのに、いつの間にか動物園の檻みたいなところに入れられて吸う羽目になってしまった。
落ち着きたくて吸ってるのに、これじゃ逆に苛ついてくる。
だから言葉が勝手に口から出てきてしまったりするのだ。
「何かあったんですか?」
隣にいた後輩の吉村が鼻から煙を出しながら岩本に訊く。
「いや、なんでもない。なんか、こんな狭い空間で煙草吸ってたらだんだんイラついちゃって」
岩本が言うと、吉村は納得するようにうなずいた。
「狭いですよね。なんか、そのうち煙草吸うための有料の個室ブースみたいなのができちゃうんじゃないかと思ってますよ」
「さらに金とるのかよ……、勘弁してくれ」
岩本は眉毛を八の字にしてみせた。
「僕もこれ以上、煙草に金を費やすのはきついです。でも、僕は狭い喫煙スペース、好きなんですよ」
少しだけ黄色くなった歯を見せながら、吉村は続けた。
「岩本さん、例えば喫煙スペースがなかったら、どこで吸いますか? 道ばたで吸うことも、条例とかで禁止されていなかったとしたら」
「そんなんだったら、どこでも吸ってやるよ。道ばたでも通学路でもレストランでも電車の中でも」
「たしかに、昔だったらそれで良かったと思うんですけど、今はちょっと無理でしょう。煙草が嫌いな人はたくさんいるし、僕は別にその人たちに嫌がらせをしたいわけじゃない」
「じゃあ、おまえはどこで吸うんだよ」
「吸ってる人の近くで吸います。そうすれば、吸わない人への罪悪感みたいなものが軽くなるので」
「罪悪感?おまえ、煙草なんか吸うのに罪悪感なんか感じてるの?」
岩本は吹き出して笑った。
吉村も恥ずかしそうに笑って、あごを指でかりかりと掻いた。
「気が小さいんですよ。だから、喫煙スペースが好きなんです。その、罪悪感から自分を完全に守ってくれるし、外側から見たら動物園の檻みたいに見えるけど、内側にいると仲間がいるので、安心するんです」
吉村は短くなった煙草を灰皿のふちでごしごしと擦って捨てた。
岩本は吉村の言葉にへぇ、と気の抜けた返事をしてから、自分はもう一本吸うから先に行っててくれ、と言った。
煙草に火をつけるとちりちりと燃える音が、かすかに聞こえた。
煙を肺の奥まで染み込ませてから白い雲の見える上空に吐き出した。
ふざけんなバカヤロウ、と心の中で声にしてみたが、さっきまであったはずの苛立ちはほとんど消えていた。
まだ長い煙草をぎゅっと灰皿に押し付けて捨て、軽くなった足で喫煙スペースを出る。
岩本は何の歌かもわからない不格好な歌を、鼻の奥で歌いながら歩いた。
(終)