2013.07.05

第五話 「彼岸と此岸」

 真由美がまとっている白いワンピースの光とは対照的に、彼女の目は赤く腫れていた。

 何時間も何日間も泣き続けたみたいな疲れきったまぶたの奥に、芯の通った茶色い目が見える。どうしてこんなに離れているのに、すぐそばにいるみたいにありありとわかるのだろう、とタンノは不思議に思った。

 

 

 今日は何があった日だろう。

 タンノは背景に溶けそうな真由美の白い輪郭をなぞりながらぼんやりと考えた。

 

 

 真由美は普段、色の深く濃い服を好んだが、彼女の中で特別な出来事があった日や喜ばしいことがあった日、記念日にあたる日などにそのワンピースを身にまとった。

 タンノが初めてその姿を目にしたのは、二人が付き合って最初のデートの時だった。普段、見慣れている制服姿とは違う、光を放つような彼女の姿をタンノは鮮明に覚えている。

 初めてのデートの為にお洒落をしてきてくれたのだとタンノは思い喜んだが、そうではなく理由は他にあった。普段はそっけない近所の猫と五日連続で目が合ったから、そのお祝いに着てきたのだ、と彼女は言って、きれいに並んだ歯を見せて笑った。タンノはそれを聞いて少々肩を落としたが、それ以上に花が咲いたみたいな真由美の笑顔に胸をうたれた。

 それからも真由美が白いワンピース姿で現れることはたまにあったが、それがどんな理由であったかタンノは詳細には覚えていなかった。覚えられないほどかすかな出来事を、真由美は喜び祝福した。タンノが彼女の服を褒めると、その特別な一日の色や光を吸い込むためにこのワンピースを着るのだ、と言って彼女はまた笑った。

 

 

 また、ほんの少しの素敵なことがあったに違いない。そう思いながら、タンノはぼんやりとした記憶と重ねながら真由美の姿を眺めた。

 

「アキちゃん」

 

 錆びてしまった古い窓を開けるような、細くて枯れた声で真由美が呼ぶ。今まで聞いた事のない恋人の声に、タンノは急に怖くなった。

 涙で腫れた赤い瞳からは、タンノがいつも目にしているやわらかさが消えていた。

 真由美はアキラという名前を、アキ、アキちゃん、アキラ君などの様々な呼び方で呼ぶが、アキちゃんと呼ぶときは、彼女が精神的に助けを求めているときの呼び方だった。

 

「真由美、今日は何があった? 何の記念日だ?」

 

 タンノはつばを飲み込みながら、固くなった声で言う。

 話すべきことはそんなことではないとわかってはいたが、何を言っていいのかわからなかった。膝と手の指先が、不穏な兆しを受信したみたいにふるえ始めた。

 

「アキちゃん、こっちに来て。一人は嫌だよ」

 

真由美は目を大きくこじ開けて、眉をぎゅっとしぼって言う。

 

「何言ってるんだよ、一人にするわけないだろ、ずっと一緒だよ」

 

 タンノは自分でもよくわからないまま言葉を並べて、口だけで笑ってみせる。感じることのなかった心臓の音が地団駄を踏むみたいに暴れだした。喉が急に渇きだして何度もつばを飲み込む。喉の奥から胃液の臭いがしてきそうだった。

 

「ちょっと待ってくれ、なんで真由美、そっち側にいるんだ? だって……」

 

 だってそっち側は死んだ人間の世界じゃないのか、と頭の中で言う。

 停まっていた車が急発進するみたいに、タンノの中で思考や感情が流れ出した。考えてはいけない事柄が、飢えた獣のようにタンノに襲いかかる。

 これはただの夢だ。

 タンノは何度も口の中でそう言い続けた。

 

「アキちゃんこそ、どうしてそっち側にいるの? お願い、こっちに来て、お願い」

 

 ほとんど叫び声になった真由美の声は、タンノの心臓を強く叩いた。

 

「どうしてって言われても……」

 

 タンノは自分だけに聞こえるように口にした。

 二人の間を流れる川は、タンノの心臓に呼応するように激しくなっていった。

 時間がないのだ、と彼は直感した。

 ゆるやかだった川は重力を間違えた滝のように右から左へと猛烈な勢いで流れていった。無音だったはずの揺らぎが、敵を威嚇する雄叫びみたいな声をあげている。

 真由美は口を動かしていたが、その声はもうタンノに届く事はなかった。

 

 

 どうして真由美が向こう側にいてどうして自分がこちら側にいるのか、その理由はわからないが、向こう岸にたどり着かなければ、もう二度と真由美と出会えないということはわかっていた。

 

 

 タンノはそれだけを考えると、あっけなく白い激流に飛び込んでいった。

 

 

 

 

(続)