2013.10.14

日陰の中で

 ムラヤマカズオは一つの石に腰掛けた。

 石は玄関を出たところに置いてある庭石で、そこに座ると目の前に肥沃な畑が広がり、その先には中学校が見える。アルミ製の杖に体重をかけてバランスをとりながら、船が沈没するみたいな早さでゆっくりと腰を下ろす。気持ちよい冷たさがズボンをすり抜けて伝わってくる。植えられた石榴の木にとまっている蝉が、朦朧とした声で鳴き続けている。

 

 ムラヤマはかぶっていた帽子をとり、汗のない乾いた額を拭い、再び帽子を頭に乗せる。長い旅路の息を抜くように、ふぅ、と声を出す。庭石に座ると、ちょうど石榴の木の影になり、直射日光は避けられる。それでも突き抜ける木漏れ日と、吹きつける熱の風は息苦しかった。

 

 目の前の畑の半分は土のままで、もう半分は中途半端に手入れされたトマトや茄子が、不完全な形で申し訳なさそうに垂れ下がっていた。ほんの一週間前まではヒマワリも元気に咲いていたが、今では太陽に血を抜かれたように、しょんぼりと項垂れている。風が強く吹くと、表面の乾いた土がさらさらと移動する。空の青や植物の緑や土の茶色が、太陽の家来みたいにどれも眩しかった。

 

 一ヶ月前に友人が死んで、知り合いはみんないなくなってしまった。

 春日という名前のその友人はムラヤマと同い年で、一般的に長寿と呼ばれる年齢だった。

 

 俺とお前だけが残っちまったな、とか、次はどっちの番かな、とか、そんなことを言って寂しく笑っていた。春日はその年齢にしては驚くほど健康的で、悪い所と言えば耳が少し聞こえない程度だった。毎日、朝と夜の散歩は欠かさず、話す声も大きく溌剌としていて(耳が遠いから自然と声が大きくなるのかもしれない)ほとんどの時間を笑顔で過ごしていた。それに対してムラヤマは、身体的な事情であまり遠くまで出かけることが出来ず、部屋の中で誰に宛てるでもない手紙を書いたり、若い頃に買った本を何度も読み返したりして過ごしていた。

 

 春日の体はトラックに当てられて布切れのようにぐしゃぐしゃになって、十メートルも飛んだらしい。唯一欠落している聴覚が原因で、トラックのクラクションが聴こえなかったのだろう、と家族は言った。トラックの運転手はもちろん避けるものだろうと思い、減速をしなかった。固く巨大な鉄の塊が、時速60キロの速度で春日の体を弾き飛ばした。

 

 ムラヤマは耳にした事故の内容を元に、何度もその場面を想像した。春日の体がバンパーに、頭がフロントガラスにぶつかり(その時点で内臓や頭部への衝撃で死んでいただろう)鼻や口や耳や肛門から血や内臓や排泄物をまき散らしながら宙に舞い、靴は遠くの方まで飛んでしまい、着地のときにもう一度体の外側や内部が傷つき破壊され、また春日の中身が飛び出る。太陽の熱を吸い込んだ灼けつくアスファルトに、春日の肉体が静止する。血は黒いコンクリートの溝に流れ、内臓はすぐにみっともない臭いを放つ。

 

 俺はそのとき何をしていたっけ、おまえのその事故が突然すぎて、そのまわりのいろんな事を忘れてしまった。でも、それを聞いたとき、ああ、やったなと、俺は思ったんだ。おまえがそうなったのは、おまえがそうしたかったからなんだろう。クラクションが聴こえなかったなんて、嘘だろう? だって、おまえは俺と話すとき、聞き返すことなんて一度もなかったし、俺が大きい声を出すこともなかった。なんで耳が悪いなんて嘘をついていたのかわからなかったけど、事故の話を聞いて、ああ、この為だったのか、と思ったんだ。おまえは前からそのつもりだったんだろう? なあ、そうだろう。おかげで俺は一人になっちまった。一人はつまらねえ。おまえと二人だけの時もつまらなかったけど、一人はもっとつまらねえ。でも、そのつまらなさも気にならなくなってくる。長生きってのは、何なんだ、一体。早くそっちにいきてえよ。

 

 中学校のチャイムが鳴り、ムラヤマは長い間閉じていた瞼を開けた。待ち構えていたように光が目に飛び込む。眉をしかめた薄目で 校舎を見る。空の青色と校舎の淀みない白色が主張し合ってバランスをとっている。


「おじいちゃん、ただいま」


 目覚ましのように突き抜ける声に、はっとする。


「おかえり」


 ムラヤマは声の方を向いて、日陰の中で笑った。

 



(終)