2013.09.16
壁を見た事が無い男
壁を見た事が無い男がいた。
男は寺田と呼ばれていた。
寺田と呼ばれているその男の名前は、島野だった。
男は自分がいつから寺田と呼ばれるようになったのか、覚えていなかった。
昔は誰もが自分の事を島野と呼んでいたのだが。
ふと思い出しては首をかしげた。
寺田と呼ばれる島野という男は、壁を見た事が無かった。
目の前にはいつも果てしない空気だけがあって、その中に散りばめられた街や空や人を見ていた。
何かを見ていないと疲れてしまう。
中学生の頃、学校からの帰り道にそれに気付いた。
何も無いところに視点をやると、そこにある空気に目玉が吸い込まれるみたいな感覚になる。
そのままごろっと飛び出してしまいそうな痛みもあった。
その時から、何か、何でも良いから何かを見ようと思った。
動いてるものの方が都合が良かった。
歩く人、走る電車、風の強い日の雲、流れ出る蛇口の水、転がるボール、飛び跳ねる虫。
壁はどこにあるのか、と島野は友人に訊いた。
どこにでもある、と友人は答えた。
おまえの目の前にもあるだろう、と付け加えた。
島野はそれが壁ではない事を知っていた。
友人の言う壁は、壁とは違う別のものだった。
目で何かを追うようになってからだ。
島野はうっすらとした答を作った。
俺が寺田と呼ばれるようになったのは、見えない壁を見ようとしなくなってからだ。
透明な糸みたいなトンボを目で追跡しながら思う。
紫とオレンジで焼かれた空を見る。
そこにはまだ、壁は見えなかった。
(終)