2013.08.19
はぬけのカラス
毎朝、家を出るとき、そのカラスは電線の決まった場所にとまっていた。
私がカラスの下を通ると、シャア、シャア、と息を吐く。
入れ歯のとれたおばあさんが、呪文のような言葉でファミレスの店員に文句を言うのに似ていた。
太陽が昇りきっていない平べったい薄青の空をバックに、カラスは電線と同じ黒でつながっていて、ひとふで書きみたいだと思った。
カラスと空を見上げながら通り過ぎて、私は学校へと向かう。
「歯が抜けてるんだよ、あのカラス」
手のひらに収まるくらいの小さなグラスに、ビールをちびちびと注いで父親が言った。
「だから、あんな声なんだよ」
細かいビーズみたいな小さくてかわいい泡がコップに浮かんで、ぷちぷちと弾ける。
そうなんだ、と私は思った。
だから、あんな鳴き声なのか。
ずっと昔から見かけるし、もうおばあさんなのかもな。
思い出してみると、他のカラスよりもしおれてる気がする。
なんだか、人間みたいだな。
「何言ってんのお父さん、カラスに歯が生えてるわけないじゃない」
お風呂から出てきた姉が体から湯気を上らせながら言う。
濡れたままのしおらしく垂れた髪が、なんだかイヤラシかった。
お父さんだって男の人なんだよ、お姉ちゃん。
「しおり、お父さんに騙されちゃだめよ」
姉はそう言って、冷蔵庫を開ける。
父親は、そうかあ? と言ってテレビの方を見る。
ウチのテレビは買い替えるたびに大きくなっているのに、父親とテレビの距離は変わらなかった。
そんなに近くで見てたら目が悪くなるよ、お父さん。
「じゃあ、どうしてあのカラス、あんな声してるの?」
私は姉の背中に訊く。
冷蔵庫、そんなにいつまでも開けてたら電気代がもったいないでしょ。
「知りたい? 知りたかったら明日の夕方五時くらい、向かいの公園に行っておいで。公園の、鉄棒あたり。行ってみればわかるから」
冷蔵庫がぱたんと閉まる。
「なんでわかるの? 知ってるんなら今教えてよ」
姉はヤクルトのふたを真剣に開けている。
「あたしが教えても信じないと思うからさ、自分で見てきた方がいいよ」
父親が音を立てずにビールをすすったとき、テレビの中で誰かがホームランを打った。
ため息に乗じて、おぉ、という声が出る。
お父さん、本当は野球、そこまで好きじゃないのに、どうして見るんだろう。
次の日、姉に教えられた通り、夕方五時に公園の鉄棒のところに来た。
あのカラスが、どこかにいるのかもしれない。
そう思って、木の上や電柱をしばらくの間眺めたけど、三十分くらい経っても何も起こらなかった。
あぁ、と私は心の中でため息を吐く。
きっと噓だったのだ。
いつものように、姉は私をからかったのだ。
私は今までに何回も、姉に騙されてきた。
その度に、もう信用しない、どんなに些細なことも信じない、そう心に決めていた。
それなのに、また同じ失敗をしてしまった。
ほっぺたのあたりから涙がのぼってくるのがわかった。
鼻息を荒くして、両手をぎゅっと握って、涙の通る道をふさいだ。
悔しくて地面を踏んづけていると、すぐ後ろで父親の声が聞こえた。
「しおり、もう暗くなるぞ、帰ろう」
暴れているのを見られた事が恥ずかしくなり、私は父親をきっと睨んだ。
「言われなくても帰るとこだよ! うるさいなあ!」
地面を踏みつけて歩いていると、父親はもう一度私を呼んだ。
なによ! と言って振り返ったとき、父親が鉄棒をつかんでふわりと一回転した。
逆上がりだった。
私は言葉を失って、ひらりと着地する父親を見ていた。
「帰ろう」
近づいてきた父親はやさしい声で、私に手を差し伸べた。
逆上がりなんて、子供だけがやるものだと思ってた。
体育の授業とかお昼休みとかに、校庭や公園の、子供だけの世界で。
逆上がりは子供だけがするものじゃないんだ。
大人も逆上がりをするんだ。
そう思ったとき、引き止めていた涙が私の隙間から逃げるように流れていった。
私は泣きながら、差し出された父親の指をかるくつまんだ。
(終)
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