2013.11.21
橘川幸夫 「想像を絶することがしたい」
橘川幸夫さんという人がいる。
ウィキペディアなんかを見てもらえば輪郭くらいはわかるかもしれない。
ロッキング・オンという雑誌を創った人、と言うのがメジャーな紹介の仕方だろう。たぶん。
大学の在学中、リアルテキスト塾という文章の塾を、教授に紹介してもらった。
その塾を主宰し、講師をしていたのが橘川さんだ。
そこでは実際的な「文章の書き方」を教えるのではなく「書くこととは何か」を伝えていた。
「教えて」いたのではなく、「伝えて」いた。
一時間とか二時間の講義の間、橘川さんはしゃべり続けた。
人の話を聞き続ける、というのはとても退屈でシンドイことだが、橘川さんの話を聞いているときは、それが一切無かった。
どんなに眠いときでも眠くならなかったし、疲れていても神経が途切れることはなかった。
例えるなら、好きなミュージシャンのライブで二時間立ちっぱなしでも全く疲れを感じない、というような感じだ。
橘川さんは講義や講演をライブと呼んでいるし、きっとそんな感じなのだろう。
そこで話す事はいろいろな事柄に言及していて、ちょっと一言では言えない。
一番心に残っているのは、誰かが質問した「現代や将来、不安や様々な問題がある中で、どうやって生きていけばいいか」というような質問に対して、「自分に正直でいるのが一番だ、素直でいるのが一番だ」という答えを返したことだ。(思い出せば他にも様々あるが、とりあえず今はそれが強く残っている)
とにかく、そんな人がいる。
昨日、とある説明会があった。
説明会といっても小さい事務所で数人に開かれたものだ。
そこで未来フェスというプロジェクトの今後について、橘川さんは話した。
これについてもネットで情報を見て欲しい。
これもあまり、一言では言えない。汗
「あらゆる人がわかり合う事」を目的としたプロジェクト、だと思う。
わかり合うというのは、全世界の人類が仲良く手をつないで生きていこう、ということではない。
わかり合った上で反発したり喧嘩したり討論したり仲良くなったり嫌いになったり、とにかくどんな形でもいいから「関係をつくる」ということだ。
と、思う。
そんなプロジェクトだと思う。
その講義のあと、ご飯を食べながら橘川さんはこう言った。
「想像を絶することがしたい」
おお、と思った。
それはどんなことだろう、と思っても、想像を絶することだから想像できるわけがない。
それをしたい、と言うのだ。
その言葉に衝撃を受けたというか、とにかく、結構きた。
想像を絶すること、それは完全に闇の中に入らないと出会えないものだ。
過去の経験や統計や分析だったり、未来に対する理想や想像では決して捉えられないものだ。
その為にはただ、現実的に動くしかない。
頭の中で計算や推測をしつつではあるだろうが、とにかく、やってみることだ。
泥の中に手を突っ込んで手探りで「何か」を探す。
橘川さんが探している「何か」というのは、人と人とが愛し合うために、分かり合うために、通じ合うために必要な何か、だ。たぶん。
その「何か」はシステムであったり状況であったり、場所であったり時間とか時代であったりする。それか、その集合体だったりする。
想像を絶することがしたい、といっても、橘川さんにはちゃんとした目的がある。
その目的を果たすためには、想像を絶することをしなければいけない、というか、想像できないところにゴールがあるのだろう。
きっと、想像して想像して想像し尽くした結果、答えが想像の中に無いことを導き出したのだ。
橘川さんの放ったこの一言は、今まで見てきたプレゼンテーションの中で、最もおもしろいものだと思った。(もちろん橘川さんはプレゼンテーションのつもりで言ったわけではない、と思う)
この、無責任で、欲望の詰まった言葉が、がつんときたのだ。
ここで重要なのは、橘川さんが実際に動き続けていることだ。
その活動は、たぶん、彼が生まれたときから始まっていたのかもしれない。
「これは何だかわからない、でも、何かありそうな気がする」
そういう「何か」に対する嗅覚と反射神経と好奇心で、確証も保証もなく動き続けている。(確証も保証もなく、かはわからないけど)
だからその一言にやられたのだろう。
何もしていない人間が同じことを言っても、何も思うことはないだろう。
その言葉を聴いて、動け、というのを感じた。
不安でも、漠然としていても、何が見つかるかわからなくても、すべてが無駄に終わっても、とにかく、動かなければいけない、と思った。
見えない闇に怯えて地続きの現実を過ごすよりも、もっと良いと思う方向に向かうために、恐怖と衝動に挟まれながら、動かなければいけない。
橘川さんの言葉に、勝手に感情が湧きあがってきたわけだが、ほんとうに、なんだかよくわからないエネルギーが出てきた。
そのエネルギーは自分で歩き出す為の力というものではなく、自分の背中を押す為の力になっている。
恐怖で立ちすくんでる奴を、自ら歩き出させるのは難しいが、背中を押してやることはたやすい。
それが本人の進みたい方向ならば、多分、最初の方だけ押してやれば、恐怖にも慣れて自分から歩き出すだろう。
(勇気がなくて好きな女の子に話しかけられないけど、背中を押してくれる友人がいたら頑張れる、的なことか。違うか。)
その言葉に、背中を押されたのだ。
というのを、とにかく書かなければ、と思って書いた。
書いた!!
橘川さんのツイッターです。
未来フェス。