2013.10.17

たかいところ

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(高尾山頂から)



この前、高いところに登りました。

 

ひとつは高尾山で、ひとつは六本木ヒルズです。

 

高尾山にはビールを飲みに行きました。


頂上付近で、ビアガーデンがやっているので、それを目当てにさくさくと登って行きました。

 

しかし、ビアガーデンが貸し切りで、入場までに二、三時間も待つ事になりました。

 

時間をつぶす為に缶ビールを片手に頂上へと向かいました。


高尾山には今まで何回か登った事がありますが、ちゃんと頂上まで登ったのはそれが初めてでした。

 

そこに広がるのは、行き場を失った人たちの群れでした。

 

人がいっぱいいました。

 

売店もありました。

 

ごちゃごちゃした人ごみを抜けていくと、外の景色を一望できるスポットがありました。

 

少し前の事だったのであまり覚えていないのですが、その景色はただの絵のように見えました。

 

山がレイヤーになって白んでいって、その下に街が見えます。

 

なんだろう、この感動の無さは。

 

と思ってしまうようなどうでも良い景色が、眼下に広がっていました。

 

とても白々しい風景でした。

 

これだったら多摩川にでも行って空でも見ていた方がマシなのでは、と思いました。

 

無感動の原因は、多分、何もない、ということだったのです。

 

何もないから何も思えなかったのです。

 

写真を見返してみても、何も感じません。

 

「高いところに登ると景色が良い」

 

そう思う事自体、間違っていたのかもしれません。

 

本当は、元々そこには何も無かったのでしょう。

 

そこに付随する過程がそう思わせていたのだと思います。

 

山登りは、確かに気持ちの良いものです。

 

普段使わない筋肉を使って、汗をかいて、人とおしゃべりをして。

 

達成感と、一緒に登った人との一体感みたいなものがあると思います。

 

その効果によって、綺麗に見えているだけなのではないでしょうか。

 

徹夜で仕事を片付けた後の朝焼けと、飲んだくれて朝帰りしたときの朝焼けは、同じ景色でもきっと違います。

 

山登りのあとの景色がそれと同じようなことならば、私は登った事に対して何も思わなかったのだと思います。

 

達成感とか、一体感とか、疲労感とか、開放感とか。

 

それは、その通りです。

 

なぜならば、私はビアガーデンを目指して登っていたからです。

 

もし、山のふもとにビアガーデンがあれば、私は山に登らずにそちらで済ませていたでしょう。

 

ただの過程として、通り道として山を登っていたので、何も感じられなかったのでしょう。

 

それは、景色を見ても何も感じなかった原因の一つとしてあります。

 

しかし、それとは別に、もう一つ感じたことがあります。

 

それは、高尾山が、他の山から疎まれているのではないか、ということです。

 

よそよそしさを感じたのです。

 

街からも、すぐ隣に見える山からも。

 

高尾山の形のせいでしょうか。

 

何故かどれも遠くて、のっぺりしているんです。

 

他の山が高尾山に関わりたくない、と思ってる感じです。

 

腫れ物、というのでしょうか。

 

高尾山だけに人が集まって、他の山はそれを不憫に思っているのかもしれません。

 

そして高尾山は、もしかしたらそこまで登ってほしくないのではないか、と思うのです。

 

登ってくれてありがとう、お疲れさま、と山の方が思っていなかったから、ご褒美である景色も軽薄だったのかもしれない。

 

そんな雰囲気があって、あまり景色が良くなかったのだと、感じています。

 

次に登る時には注意して見ておきたいです。

 

でも、ビアガーデンでのビールはおいしくいただきました。

 

3300円でビールも数種類飲み放題、料理も食べ放題なので、来年あたり、ぜひどうぞ。

 

 

 

その次の日くらいに、六本木ヒルズの高いところにいました。

 

これは登った、という感じではありませんが、エレベーターで上がりました。

 

大きく開いた窓から、建物が地の果てまで見えます。

 

これは迫力があり、圧巻でした。

 

こうやって街を見下ろすときにいつも思うのが、とてもグロテスクだな、ということです。

 

一つ一つがカビのように張り付いて、少しの隙間もなく覆っています。

 

これは異常な状態だ、といつも思います。

 

早くこの一面が自然の緑になるように願います。

 

願うだけで、何もしません。

 

何もしなくても、いつかそうなる日がくると思っているからです。

 

そして、よくこれだけのものを手作りで作ったな、と感心します。

 

一つ一つの窓の中に動く人がいて、まったく関係の無い人が動き続けて世界が動いているのだな、とぼんやり考えます。

 

すべての人に意識があって、時間が流れて、感情があって、歴史があって、と思うと頭のなかがほわほわしてきます。

 

魂の情報量というのは、一人では一人分しか処理できないのだな、とつくづく思います。

 

そして、高尾山と違っていたのは、空の広さでした。

 

標高で見ると、六本木ヒルズは高尾山の半分ほどですが、こちらの方が空に近く感じました。

 

迫力のある空を見られるのは稀なので、それは感動しました。

 

でも、高尾山の高さとは質が違って、気が遠のきそうになるんです。

 

あまり見たくない景色ですね。

 

これ、元に戻るの何百年かかるんだろうと、思ってしまうのです。

 

隕石でも落ちてくれば別ですけど。

 

自分もこのグロテスクなカビを構築する一部なのだと思って、ちょっと切なくなります。

 

でも、切なくなるだけで、降りてしまえば何も思わないのです。

 

それが高いところの空虚さなのです。

 

そんな事を思った、高いところでした。

 

 

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(六本木ヒルズの上から)



 


ひぃー( ゜ω゜;)