2013.11.19

第三十一話 「融解2」

 カオリの瞳から落下した涙は、どこか見えないところに消えていってしまった。
 タンノは否定の意味を込めた沈黙を置いて、カオリの縒れた制服の胸のあたりをぼんやりと眺めた。心臓や呼吸で、彼女の身体がかすかに揺れているのがわかった。

 カオリは手を当てて鼻を啜り、はあっと息を吐く。

 空中を見つめる目は、溶けかけたビー玉のように見えた。

 唾をひとつ飲み込んでから、カオリは言う。

 

「ねえ、もしかして、その私のいない世界では、タンノ君は佐野真由美さんとうまくやっていたの?」

 

 カオリの口から出て来た恋人の名前に、タンノの心臓は固まった。

 タンノが咄嗟にカオリの顔を見ると、彼女の眉はきつく寄せられていた。

 

「どうしてその人の名前を知ってるんだ……?」

 

 タンノは何も想像する間もなく、カオリに質問していた。

 カオリはそれに応えず、まっすぐにタンノを見据えたまま質問を重ねる。

 

「ねえ、いいから答えて、そうなの? 佐野真由美さんと、恋人同士だったりしたの?」

 

 カオリは唇を小さく噛む。その表情は悲しみに満ちていたが、タンノにはその悲しみがどこからくるものなのか、少しもわからなかった。


「佐野真由美さんとは、恋人同士だったよ。今でも付き合っていて、きっと、俺が元の世界に戻るのを待っている」

 

 一つずつ言葉を置いていくように、タンノは慎重に話した。カオリは視線を落とし、タンノの言葉をすりつぶすように奥歯で歯ぎしりをする。

 

「またそんなこと言ってるの?」

 

「また?」

 

 またってどういう意味だ? とタンノは心の中で訊く。

 

「佐野真由美さんはもう、アオキさんのものなんでしょ? 高校の時からずっと付き合ってるんでしょう? タンノ君が言ってたんじゃない。大好きだけど、忘れなきゃ、諦めなきゃって。それなのに、記憶をなくしたとか、別の世界から来たとか噓まで吐いて、まだ幻を見ようとしてる。ねえ、どうしたら忘れてくれるの? どうやったら諦めがつくの? わたしはいつまで待てばいいの?」


 カオリは背中を丸めて俯いた。歪なカーブを描いた肩が、小さく震えている。

 タンノは彼女の短く垂れた髪を見ながら、何を言うべきか考えた。目の前で泣いている少女は明らかに傷ついていた。タンノが放つ一つ一つの言葉に血を流しているのがわかった。彼女の言葉とこの世界の状況をつなぎ合わせなくてはいけない、とタンノは思った。



 確かに彼女の言う通り、高校時代から真由美とアオキが付き合っていたら、俺は何年経っても真由美を諦めたり忘れたりすることはできなかっただろう。それほど想いを寄せていたし、真由美を欲していた。だからこの世界の俺は、彼らを避けて過ごしていたのだ。今でも二人が付き合っているところを想像してみただけで、腹の中にどす黒い渦がすぐに出来上がる。

 時には真由美と付き合っている夢を見たり想像をしたりして、自分を偽ろうとすることもあるかもしれない。記憶を失ったふりをしたり、あるいは別の世界から来たふりをして、真由美とアオキが恋人同士であるこの世界をすべて否定したかもしれない。

 この世界の俺は、きっとそうやって過ごしてきていたのだ。

 二人が付き合うというのは俺にとって、それだけ衝撃的で絶望的な事なのだ。

 その部分については、なんとなく把握できる気がする。この世界で俺がどうやって過ごしていたのかは、少し感じ取れる。

 しかし、わからないのは目の前で肩を震わせる少女の存在だ。女子高校生と出会うきっかけなど、今までの人生では一つもなかった。それも真由美とアオキが付き合った衝撃の余波だろうか。自棄になってナンパでもしたりしたのだろうか。それはあまり想像がつかない。

 こればかりは、訊いてみないとわかりそうにない。



 タンノはいつの間にか手元に落としていた視線をくいっと持ち上げて、カオリに目を向けた。彼女の顔はまだ俯いたままで、タンノからは表情がよく見えなかった。


「エンドウカオリさん、僕と君はどこで出会ったのか、どういう関係なのか、教えてくれないか」


 小さい針で刺されたみたいに、カオリの身体がピクリと動く。ゆっくりと顔を持ち上げて、少し疲れた目でタンノを見る。


「覚えてないなんて言わせないわよ」


 責めるようにカオリが言う。


「頼むから、教えてくれ」


 タンノは怯まずに応じた。まっすぐな目でカオリを見る。フェンシングの切っ先を重ねるみたいに、カオリも視線を伸ばす。


「タンノ君、私を襲ったのよ」


 視線とともに、カオリはタンノに言葉を突き刺した。

 

 

 

 

(続)