2013.06.22

第一話 「白濁の川」

 ナイフが脇腹に突き刺さってから抜けるまでの数時間、タンノは永い夢を見た。
 深く侵入してきた刃からちぎれるような痛みが執拗に入り込み、やがて痛みが熱に変わり全身に広がって、目の前の景色がゆっくりと見えなくなった頃、夢は始まった。
 

 タンノは夢の中で呼吸をしていた。呼吸はとても静かだったが、別の誰かが耳元で息をしてるみたいに、自分の息づかいがはっきりと耳に聞こえてきた。呼吸以外に空気を震わせるものは何もなかった。
 腹に刺さっていたナイフは無くなっていたが、重みを含んだ痛みが残っていた。刺された部分を指でなぞってみると、皮膚の下に固いものが埋まっているのがわかる。ナイフの刃だ。まだ刺さっているのだ、と思った。しかし、さきほどまであったはずの激痛や苦しさや恐怖などはどこにもない。死んでしまいそうなほどの苦痛から逃れられた事に、とりあえず安心した。
 それでも、呼吸はしているのに心臓が動いていないような気がして落ち着かなかった。
 夢の中だというのにまぶたが重く、何日も夜を徹したみたいに頭がぼんやりして、何も思うことができない。
 タンノは体育座りをして、自分の靴を見た。背中を丸めると腹の中にあるナイフの刃がごりごりと肋骨にぶつかるような気がした。
 靴のすり減った踵や削れたつま先を指先でかりかりと擦る。


 もうボロボロだ、新しいのを買ってやらないと。次に金が入るのはいつだっけ、15日か、あるかな、金。あとプリンタのインクも買わないと、微妙に高いんだよな、あれ。というか、そんなに金あったっけ、微妙だな……。 


 頭の中で今月の自由に使える金を計算して、タンノは肩を落とした。
 短いため息をついて顔を上げると、目の前に巨大な川が流れていた。最初からあったのかたった今出来上がったのか、思い出す事ができない。
 右側の地平線から左側の地平線まで続いていて、地球を一周しているように見えた。川の水は日に焼けて色あせた牛乳みたいに白く濁り、うなぎがぬるぬると泳ぐみたいに音をたてずに流れていた。
 川は好きだ、とタンノは思う。
 見ていて飽きないし、涸れない限り昼も夜も途切れる事なくずっと続いている。今見てる水はもう別の水になっているのに、川はそのままの格好をしている。いつまでもそれが続いていると思うと、寿命の長い生き物に触れているような気がして安心するのだ。
 たくさんの小さい粒が破裂して作られるノイズも、川の呼吸や鳴き声みたいに聞こえてくる。その声を聴いていると自分の存在がどんどん希薄になっていって、自分がいてもいなくても川は流れ続けるということがわかってくる。そう思うとどこからか力が抜けて、気持ちが楽になった。
 しかし、タンノの目の前を流れる川は、普段目にしている川とは違っていた。白濁としていて水が流れる音も聞こえず、傾斜もなく風も吹いていないのに一定の速さで水が流れ続けていた。流れるプールみたいな、人工的な流れだった。
 彼はしばらく目の前の川について考えを巡らせたあと、それがいわゆる三途の川だということに気がついた。確証はなかったが、状況としてそれ以外に考えられなかった。


 でも、こういうのは普通、向こう岸で誰かが呼んでくれるものじゃないのか? 死んだじいさんとか死んだばあさんとか、というか、向こう岸なんて見えないくらいに遠いし、渡る前に力尽きて流されそうだ。
 三途の川で溺れて死んだらどうなるんだろう、成仏できないとかそういうことになるんだろうか、そもそも、成仏できなかったらどうなるんだ? 死んでもいないし生きてもない状態になるんだろうか、それはそれで怖いな……。


 タンノは腹の刃が埋まった部分に手を当てて、ゆっくりと仰向けになった。上空には白い一面が広がっているだけで、何も見当たらない。睡魔とは違う種類の眠気がやってきて、タンノはまぶたをしぼるように閉じた。


 目覚めたら病院のベッドの上で管だらけになってるかもしれないし、もう一生目覚めないのかもしれない、別の場所で目覚めるのかもしれないし、また生まれて違う人生が始まってるかもしれないな。それにしても、全く思い出せない。おれはここに来る前に、どこにいて、誰に刺されたんだろう。
 なぜ、おれは刺されたんだろう。


 夢の中でさらに眠るタンノのすぐそばで、白濁とした川は無言で流れ続けた。




(続)