2013.11.11

夜の暗い海の話

 冷たくなった手摺に手をかけ、地面を一蹴して柵を跳び越える。着地した足元の先には暗い水面が蠢いていて、一歩踏み出せばその中に吸い込まれてしまう。飛び込み台みたいに出っ張った淵に立ち、柵に背中の体重をかけ、遠くに光る粒を見る。

 静止する工場の明かりと移動する船の明かり、寝息のようなビルの赤いランプ、夜更かしをするレインボーブリッジの輝き。暗い水と黒い空に挟まれた景色は、夜に合わせてコーディネートしている。水面から滑ってくる風はコートの裾を引っ張り、髪の毛を弄んだ。

 暗い水には甘い恐怖があった。つま先からそれが点滴みたいに流れ込んできて、やがて全身に廻ってくる。


 私は絡めていた手を柵から離し、体重を前にかけて一足を踏み出す。水面が靴の先に触れ、何の抵抗もなく道を開ける。水の音は聴こえずに、風の唸り声や遠くの道路の摩擦音が、まだ気付いてないみたいに鳴り続けている。

 膝まで飲み込まれると、渇いた砂漠の旅人みたいにスーツは水を飲み込む。水を含んだ生地が、しがみつくみたいに足に張り付く。景色が大きく回転し、視界は揺れる暗闇でいっぱいになる。

 私は目を強くつぶる。手や鼻や額に水滴が触れる。水の弾ける音がはじめて聴こえる。腰に冷たい水が触れたと思うと、もう頭の先まで暗い水に沈み込んでいた。夏のプールで何度も聴いたことのある音、液体のガラスがぶつかりあうみたいな音が頭の中に伝わる。

 水面から顔を出し、声とともに息を吐いた。濡れた耳に吹き抜ける風が冷凍庫にいるみたいに冷たい。届かない地面に怯えて目一杯もがく。犬かきと平泳ぎの混ざったような動きをして、その場に留まる。さっき見ていた光の景色がもっと遠くに見える。きっと私の行動に驚いて、後ずさっているのだ。

 数秒前まで立っていた淵に手をかけて、身体を引き上げる。呪いをかけられたように、スーツは冷たくて重い。柵に手をかけて全身を水面から剥がすと、身体が悪路を走る車みたいにがたがたと震えだした。携帯電話も財布も名刺もハンカチも、すべてが濡れてしまった。遅れてやってきた鳥肌が、全身を覆う。振り返って見ると、暗い水面には身体の痕が残っていた。震えながらじっと見ていると、めり込んだ水面のくぼみは周りの揺らぎに干渉されて段々と小さくなり、もとの暗い水面に戻っていった。





(終)