2013.08.30
第二十一話 「代替」
タンノは自分のデスクに戻り、腰を下ろした。
自分の出す音が、誰もいないフロアにやけに大きく響く。
心臓の鼓動は、坂道を転がるみたいにスピードを上げていく。
机の上に置かれたままの修正原稿に目をやり、少しだけ動きを止めてから、タンノは鞄から手帳を取り出した。
手帳に触れたとき、電気に触れたみたいに指先がしびれるような感覚があった。
今月のページを開いてみる。
タンノは目に入ってきたその映像を塗りつぶすように、咄嗟に瞼を固く閉じた。真由美との予定が記されていた日は、すべて空白になっていたり、身に覚えの無い別の予定が入っていた。目をつぶった暗闇の中で、悪い予感がしっかりとかたどられていくのがわかった。
デジタルカメラに残っていたはずの彼女の写真も、そこだけが抜け落ちたみたいに一切が消えてしまっていた。真由美に関係のない数枚の画像だけが、置き去りにされたように残っていた。
タンノはデジタルカメラのボタンを何度も操作したあと、諦めて鞄に戻した。
おそらく、いないのだ。
タンノは鼻でゆっくりと息をしながら思った。
見えない誰かの両腕に首をしめられているみたいに、呼吸はいつまでも苦しかった。
眉間を指で押しつけながら、真由美の電話番号を思い出そうとする。しかし、いくつかの数字を覚えているだけで、正確な番号は思い出せなかった。同じようにメールアドレスを頭の上に浮かべてみたが、彼女のアドレスが何かの単語ではなく完全にランダムな文字列だったので、タンノは思い出すのを諦めた。
ほんとうに、いないのか。
真由美のいない世界で、死ぬまで生きていくのか。
声の無い独り言を言ったあとで、タンノは顔を引きつらせて笑った。
椅子の背もたれに上体を任せて、反るような格好で天井を見る。
投げ出した両手と両足から、不吉な現実が毒のように流れ込んでくるのを感じた。
ほんの数秒、考えるのを止めて目を閉じる。
思考を止めると、タンノの五感は現実を否応無く受け取り続けた。均一にのしかかる重力、腕に流れる重たい血液、踵に反発するカーペットの敷かれた床、エアコンのはりつくようなノイズと外の世界のバランスのとれた騒音、まぎれもない自分の心臓と肺の活動、呼吸の度に盛り上がる胸。
これが試練というやつだろうか?
まぶしくもない部屋のなかで、タンノは両手で目に影をつくる。
ただ、死なないように生きなおせばいいだけではなかったのか?
試合が始まった後に、ゲームの本質的なルールを知ったような気分になった。
誰に対してでもなく、タンノは言葉を胸のあたりに放り投げる。
俺と真由美が過ごしてきた相当な量の時間は、この世界ではどのように処理されているのだろう。
何か別の出来事に入れ替えられてるのだろうか。
片桐さんが煙草を吸う程度では、元の世界との差はあまりなさそうだったが、身近な人間が一人いなくなってしまったら、その影響は大きいはずだ。
この先、いろいろな事が変わってくるのかもしれない。
タンノはある事に気付いて、自分の左肘を見る。
一ヶ月ほど前、タンノは真由美と一緒に多摩川の河原で花火をしていた。そのときに、真由美の持っていた消えかけた花火の先がタンノの腕にぶつかって、タンノは火傷をしてしまう。火傷は大きな水ぶくれができるほどで、まだ痕が残っているはずだった。
真由美に関する一切が無くなってしまっているのなら、その傷痕も消えているはずだ。
しかし、タンノの予想に反して、両目は黒豆が埋め込まれたみたいな火傷の跡を捉えた。
タンノは歯を食いしばりながら傷を睨みつける。
真由美はいない、でも傷痕は残っている。
傷痕の色も形もその時のものと同じだ。
つまり俺は、真由美ではない別の人間と、真由美の時と同じように花火をした、という事になるのだろうか。
タンノは窓の外で反射する太陽の光を少し見てから、携帯電話を手に取って再びアドレス帳を見返した。思った通り、何人かの全く覚えのない人間の名前を見つけた。メールの履歴をもう一度見てみると、その彼らと何度かやりとりをしている形跡があった。残っていたのは数件で、待ち合わせの連絡程度しか内容はわからなかった。
おそらく、この世界での俺の友人なのだろう、という事しかタンノには判断できなかった。自分ではない自分がそこにいる気がして、携帯電話を握っている右肩が粟立った。
すぐにでも彼らに電話をかけて、この世界での自分に関するすべてを訊いてしまいたかった。しかし、それと同時に彼らに関しては何一つも知りたくないとも思った。
タンノは携帯電話をデスクに放り投げて、体を揺らして椅子をぎしぎしと鳴らした。
考えを緩める必要があった。
思ったよりも、世界は複雑になっている。
タンノは自分に話しかけるみたいに、頭から心へと言葉を投げかけた。
まずは真由美の存在を確かめよう、ほんとうにこの世界にいないのかを。
共通の友人に連絡をとれば話は早いが、場合によっては片桐に話したときのように自分の精神を疑われるかもしれない、とタンノは思う。話し方によっては問題なく訊けるのかもしれないが、それよりも真由美の存在がそこで否定されてしまうのが、タンノは恐かった。
まずは、自分の手の届く範囲のやり方で調べよう。
無言で静止した携帯電話を見つめながらしばらく考えた後、タンノは鞄に荷物をまとめてフロアを出た。
真由美のアパートに行ってみよう、とタンノは思った。
その足取りは速かったが、一歩一歩が床に沈んでしまいそうなほど重かった。
でも、きっといないのだろう。
頭の中でかすかにつぶやいた自分の言葉が、下降するエレベーターの中で重くのしかかった。
(続)
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