2013.08.27

第二十話 「消失」

 タンノは自分の手のひらと相談するように眺めた後、静かに、しかし芯の通った声で答えた。

 

「はい、何もないです。悪い夢です。あと、きっとちょっと疲れてたんだと思います。でも、もう大丈夫です。ほんとうに、大丈夫です」

 

 タンノは片桐と視線をぶつける。

 こちらが否定すれば、それ以上は追及してこないことをタンノは知っていた。

 タンノが答えると片桐は諦めたように頷いてから、わかった、と言い、固く尖った雰囲気を静かに解いた。

 片桐は手首を軽く振って時計を見る。

 

「お、もうこんな時間か。そろそろ行かなきゃだな」

 

「今、何時ですか?」

 

 ほとんど反射的に、タンノは尋ねた。

 

「いちじじゅっぷん、ちょい」

 

 タンノがこの世界に目覚めてから一時間ほどが経っていた。

 たったの一時間だったが、タンノにとってはとてつもなく長い時間に感じられた。

 タンノは力が抜けたように肩を落として、言葉にならない声と一緒にため息を吐いた。

 

「でも、その夢か妄想かわからないけど、相当リアルだったんだろ? そこまで信じ込むというか、心がそうなっちゃうなんて。刺された後の神様の部分なんかも、詳細に覚えてるの?」

 

 片桐は話題を変えた。

 核心に触れられたくないのなら、せめてその周りだけでもなぞってみよう、片桐がそんな風に考えているようにタンノには思えた。真実を言えない詫びとして、話せる事は細部まで偽りなく話そうとタンノは思った。

 

「はい、結構詳しく覚えてると思います。むしろ、刺された後の世界の方が、わりとリアルに覚えてます」

 

「そういうの、どこかに文章とか文字とか絵なんかで残しておくといいよ。夢も立派な体験の一つだからな。それにタンノ君をそこまで、文字通り夢中にさせる夢も滅多にないと思うし、何かに使えるかもしれないからさ」

 

「そうですね、確かに貴重な経験でした。三途の川なんかも見ましたよ」

 

 タンノは、どこかの旅の土産話みたいに言う。

 

「あの、死んだじいさんとかばあさんが川の向こうで手招きするってやつか」

 

「そうなんですけど、自分が見たのは生きてる人間が向こう岸にいて、俺を引き止めようとしてました。それが、知ってるのと逆でちょっと面白かったですね」

 

「へえ、その向こう岸に俺いた? 出てきた?」

 

 片桐の質問に、タンノは笑って答えた。

 

「いや、片桐さんは出てこなかったですね」

 

「なんだよ、俺が出てきたら全力で引き止めるのに……」

 

 片桐は心から残念そうに言った。

 

「彼女と、高校時代の親友が出てきましたよ。ちょっとおかしかったのが、その高校の友人が……」

 

 タンノが言いかけたとき、えっ、と言って片桐が割って入ってきた。

 

「タンノ君、彼女いたの?」

 

 驚いて訊く片桐の顔を見て、タンノの両肩に一斉に鳥肌が立った。

 氷でできた幽霊が急にのしかかってきたみたいな寒気がした。

 

 

 知らないはずがない。

 知らないはずがない。

 片桐さんが真由美の事を知らないはずがない。

 

 

「……何言ってるんですか? いましたよ、高校の時から、ずっと付き合ってます」

 

 虫が死ぬような声でタンノは答えた。

 

「そうだっけ? ずっといないって言ってなかった? なんだ、ちょっと今度詳しく教えてよ、タンノ君の彼女がどんな人か気になるわ」

 

 片桐は笑いながら言った後もう一度腕時計を見て、それじゃまた、とタンノの背中をぽんと叩き、自分の部署に帰っていった。

 

 タンノは片桐の背中を見る。

 

 

 知らないはずがない。

 知らないはずがないのだ。

 

 

 落ち着いていた心臓がまた弾け出した。

 苦しくなる呼吸に何度も唾を飲み込む。

 麻痺したみたいに身体がひとつも動かない。

 消えていく片桐の背中を見ながら、タンノは固まった身体を無理矢理動かして、ポケットから携帯電話を取り出す。

 指を動かす度に、深い谷底に落ちていく気がした。

 

 携帯電話のアドレス帳にもメールにも、発着信や送受信の履歴にも、佐野真由美の名前はどこにもなかった。

 

 

 

 

(続)