2013.09.17

第二十五話 「不可逆」

 タンノに関する物がすべて消え失せているということを除いて、真由美の部屋は元の現実とほとんど変わっていなかった。いつもの癖で危うくベッドに倒れ込んでしまいそうになったが、悲しい疎外感がタンノを引き止めた。

 

 

 フローリングの床にあぐらをかいて部屋を眺める。

 目に映るどれもが見慣れているものなのに、その全てに対してぎこちない距離をとらなければならない事が、タンノを余計に孤独にさせた。

 コーヒーをスプーンでかきまぜる音が背中の方で聴こえる。

 決して心地良くはない緊張感が、そこには含まれていた。

 タンノは少しだけ振り向いて真由美を見る。固くなった真由美の背中が目に入ると、すぐに視線を戻した。

 

 

 噓でもないし、夢でもない。

 真由美にとって自分が存在しない世界が、あまりにも自然に目の前に広がっている。

 片桐が煙草を吸っているときもそうだったが、この世界が本当に本物の現実のように見えてしまうことがある。

 その境界は常にはっきりと切り分けられていなければならないし、この世界に浸食されてはいけない。

 

 

 タンノは心の中で強く念じた。

 

 

 この世界と元の現実との差異を明確に確認し続けなければ、いずれ元の現実を忘れてこの世界がほんとうになってしまう。

 

 

 真由美がコーヒーを運んで来るまで、二人は一言も発さなかった。

 カップをガラスのテーブルに置く時、鋭い音が鳴った。

 このテーブルで何度もお茶を飲んだり食事をしたりしてきたが、タンノがそんな音を聞くのは初めてだった。

 

「ありがとう」

 

 タンノは揺れて輝くコーヒーの暗闇に向けて言った。

 

「温かいので良かった?」

 

 真由美が訊く。

 

「うん、大丈夫」

 

 そう言って、湯気の立つ暗闇を少し啜ってみせた。コーヒーの香りと薄い苦みで、タンノの頭はほんの少しだけ落ち着いた気がした。

 真由美も両手でカップを持って、舐めるように啜る。

 カップをテーブルに置いて、また鋭い音が鳴る。

 それが開始の合図であるみたいに、真由美は話を始めた。

 

「それで、今日はどうしてうちに来たの? というか、よくこの場所がわかったね、誰かから聞いた?」

 

「近藤」

 

 タンノはほぼ自動的に答えた。

 

「近藤君?」

 

「そう、近藤。あいつもこの辺に住んでるだろ? それで、住所教えてもらったんだ」

 

 タンノは作った笑いを浮かべてコーヒーを一口飲んだ。

 さっきよりも苦みが増している。

 近藤は高校の同級生で、二人の共通の友人だった。かわいいものや華やかなものに女子よりも敏感で、身なりに人一倍気をつかう男だった。フラワーアレンジメントの仕事をしていて、代官山にあるフラワーブティック(要するに花屋だ)で働いている。

 この世界にも彼が存在していることに、タンノは少し安心した。

 

「そう、それで、実は俺も最近この辺りに引っ越して来たんだ。それで近藤から、佐野さんもここらへんに住んでるって聞いて、ちょっと近くまで来たからつい、尋ねちゃった」

 

 突然でごめんね、とタンノは真由美のコーヒーカップに向かって言った。

 

「なんだ、そうだったんだ。急に来たから何かあるのかと思ってびっくりしちゃったよ」

 

 真由美はそう言って溜め息を吐いてから、初めて笑ってみせた。

 

「手みやげの一つでも持ってくれば良かったね、ごめん」

 

 彼女の笑顔を久しぶりに見た気がして、タンノも自然に笑った。

 

「だってもう、何年も会ってないでしょう? ずっと会いたいなって思ってたけど、都合が合わなくて、会えないまま連絡もとれなくなっちゃって……」

 

「そっか」

 

 会いたいと思ってくれてたのか、とタンノは胸の奥に喜びを感じた。

 

「そっかじゃないでしょ、もう。いつの間にか携帯の番号もアドレスも変わっちゃってるし、なんで教えてくれなかったの?」

 

 ごめん、とタンノは咄嗟に応じる。

 

「多分、携帯無くしちゃって、佐野さんの連絡先もわからなくなっちゃったんだと思う」

 

「多分て何よ」 もう、と言って真由美は口を尖らせてみせる。

 

「いや、よく覚えてなくて、ごめん」

 

「なんだかタンノ君、高校の時とあんまり変わってないわね。相変わらず、ぼんやりしてる」

 

 真由美が呆れたように言うと、タンノは鼻を擦って誤摩化した。

 嬉しい事など一つもない状況なのに、どうしてこんなにも心がくすぐったくなるのだろう。

 彼女と話をしているとタンノはどうしても、高校時代の片思いしていた頃を思い出してしまうのだった。おそらくタンノに対する彼女の口調や対応が、その当時のままだからだろう。

 元の現実にあった親しさは微塵も無くなっているが、その代わり、誰にも踏まれていない一面の雪みたいな関係があった。

 性格も人格も変わっていないのであれば、この世界でも彼女ともう一度恋が出来るのではないだろうか。

 タンノはそう思って、ほんの少しだけ心を浮かべた。

 

「最後に会ったのっていつだっけ? 覚えてる? 俺もう、忘れちゃって」

 

 タンノが訊くと、真由美は眉を寄せて、うーんと小動物のような声で唸った。

 

「高校卒業して何回か会ったきりだから、ほんとにちょうど十年前くらいかな。でも、急に会えなくなっちゃったでしょう、私、タンノ君に避けられてると思ってた」

 

「どうして? なんで俺が避けるんだよ?」

 

 タンノは真由美の言葉に不意を突かれて笑った。

 

「だって、私たちが付き合い始めてから、タンノ君、急にそっけなくなっちゃったじゃない」

 

 真由美はそう言って、体育座りの格好で膝を抱えて体を揺らす。

 タンノの顔が笑ったまま固まる。

 

「私たちって?」

 

 タンノは静かに揺れる彼女の髪の毛を見て訊いた。

 

「私と、トモヤ君」

 

「トモヤ君?」

 

 真由美は揺らしていた体をぴたりと止めて、笑顔の消えたタンノの目をじいっと覗く。

 

「覚えてなわけないでしょう? アオキ君よ、アオキトモヤ君」

 

 アオキ君? と、タンノは頭の中で言う。

 三途の白い川で、すまん、と頭を下げたアオキの後頭部を思い出した。

 

 

 

 

(続)