2013.08.23

第十九話 「新しい現実」

 肘に冷たいものがあたって、タンノは閉じていた目をうっすらと開ける。

 ほれ、と言って片桐がペットボトルの水をタンノに差し出した。

 

「ありがとうございます」

 

 タンノは受け取ってふたを開け、半分ほど一気に飲んだ。

 冷えた液体が喉を通って胸のあたりに広がっていくのを感じる。

 

「タンノ君、そんなに足速かったっけ」

 

 そう言って片桐も、自分に買ってきた水を喉に流し込むように飲み込んだ。

 

「いや、運動は苦手なので、あんまり足は速くないんですけど」

 

 タンノは身体を起こして言う。

 血の流れが変わって、少し目眩がした。

 

「俺なんか途中から歩いちゃったもん。全然運動してないし、トシだし、あの距離を一気に走るのは辛いよ」

 

 片桐は手の中でペットボトルをくるくると回した。残った水がはしゃぐみたいに音をたてる。

 タンノはまた、すみません、と言った。

 

「それで、何で急に逃げる事になったの?」

 

 片桐の質問に、タンノは足元に視線を落とす。

 

「すみません、本当に、急になんですけど、恐くなってしまったんです」

 

「何が恐くなったのよ? 刺されるのが?」

 

「はい、そうです。あの横断歩道を渡る前は大丈夫だったんですけど、渡ってる最中に、もう一度刺されるのは恐いな、嫌だな、と思い始めて。そしたら、なんていうか、感情が噴火するみたいに湧いてきてしまったんです。本当に、片桐さんの言う通り、自分に危機感がなさすぎました」

 

 タンノは反省するように言った。

 

「いきなりそんな気持ちが出てきたの? 何のきっかけもなく?」

 

 片桐はそう言ってからペットボトルの水を飲み干して、さらに続けた。

 

「だとしたら、心が不安定すぎるだろう。噓か本当かもわからない、自分が刺される話をして、犯人を捕まえようとしたり、いきなり逃げ出したり。しかも、見てる限りではどれも冗談っぽくないし、何か悪い妄想に取り憑かれてるようにしか見えないよ」

 

 空になったペットボトルが片桐の手の中で軽やかに回転する。

 

「本当に、その通りです」

 

 タンノは視線をさらに落とした。

 

「最近、あんまりタンノ君と話す事がなかったからわからないのかもしれないけど、何かあったんなら言ってくれ。本気で心配だ」

 

 片桐の言葉に、タンノはただうなずいた。

 

「特に、さっきの顔なんか、本気で何かを恐がってるみたいに見えたけど、一体何がそんなに恐いんだよ? 何をそんなに恐がってるんだ?」

 

 何が恐い?

 タンノは頭の中で自分に訊く。

 

 

「死ぬのが恐いです」

 

 

 そうだ、俺は死ぬのが恐い。

 この虚の世界でも、本当の世界でも。

 

 

「でも、さっきの話からすると、君は今、もう刺されていないし、死ぬ事もなくなった。そうだろ? 逃げた事で刺されるのを回避できた。そして、実際に今も生きている。もう問題はないじゃないか」

 

 タンノは叱られる子供のように、黙って頷いた。

 

 

 俺の目的は生きる事だ。

 そして今も殺されずに生きている。

 片桐さんの言う通り、本当にもう何も問題はないのかもしれない。

 そうだ、生きるのだ。余計なことは考えずに、この現実で命を全うすればいいのだ。

 

 

 タンノは自分に言い聞かせて、心をゆっくりと落ち着かせた。

 

「片桐さんの言う通りです。刺される事を避けた事で俺が再び死ぬ事はなくなりました。これで生きていけます。もう大丈夫です」

 

 タンノは落としていた視線を持ち上げて、片桐の目を見る。

 

「刺されたのもきっと、リアルな夢か妄想だったんだろう」

 

 片桐はつじつまを合わせるように言う。

 刺されたのもリアルな夢、そう考えれば本当に問題はないな、とタンノは思った。

 

 

 夢を見る前と違う部分と言えば、今のところ片桐さんが煙草を吸うことくらいだ。

 

 

 そう思えたら、タンノは少しずつ安心していった。

 

 

 そうだ、すべてが悪い夢だったのだ。

 

 

 自分を納得させるようにタンノは心の中で繰り返す。

 心を伸ばすように大きく伸びをして、タンノは言う。

 

「片桐さん、ありがとうございます。もう大丈夫です」

 

 タンノはかすかな笑顔を作ってみせた。

 片桐も、タンノの顔を見て幾分、安心したようだった。

 しかし、片桐は隠している秘密を突き刺すように声を鋭くしてタンノに訊く。

 

「ほんとうに、何かあったわけじゃないんだな?」

 

 片桐の細く尖った視線が、タンノの肌に刺さった。

 タンノは片桐の態度に動揺し、身を固くした。

 片桐のこの目を、タンノは今までに何度か見た事がある。

 噓や隠し事を見抜いているということを、相手に知らせる視線だった。

 片桐は、タンノが何かを隠している事に気付いている。

 しかし、それが何であるかはわからない、だからタンノ君がもし話せるなら教えてくれ、そういう言葉を空気に乗せていた。

 タンノのかすかな笑顔は視線に溶かされるように崩れていった。

 

 

 話すべきか話さないでおくべきか、手の中で揺れるペットボトルの水を眺めながら、ほんの少しの長い間、タンノは考え続けた。

 ビルの外で鳴く蝉の声が、かすかに鼓膜を揺らしていた。

 

 

 

(続)