2013.09.02

なめくじのいびきを聞いた

 なめくじのいびきを聞いた。

 

 洋介が冷たく結露した窓を開けると、部屋の中の暖かくくたびれた空気と引き換えに、瑞々しい新鮮な空気が入ってきた。かすかに降る鋭い雨に白い息が溶けて、遠くの緑は雲がかかったみたいに掠れている。

 

 窓から頭を突き出して壁を見る。落ちてきた雨粒が耳に触れ、洋介は首をすくめた。

 白かったはずの壁は何年もの月日を経て、アイボリーのような色になっていた。ペンキの凸凹には雨や風が運んで来た埃が溜まって、黒い影が落ちている。

 

 この部屋が出来て何年になるだろう、と洋介は思った。

 洋介のいる部屋は元々更地になっていて、そこに中学生の頃、増築してできたものだった。三十数年も時間が経てば、変わっていくのは当たり前か、と自分を蔑むように笑った。

 

 普通に生きていれば、普通に会社に就職し、普通に誰かと結婚をして子供が生まれ、普通に家庭を持ち、普通に家を建て、普通に老いて、普通に死んでいくのだと思っていた。しかし、いつからかそうではないことに気がついた。

 大学を卒業してからは、仕事は一つも長く続くことはなかった。その原因は様々で、病気の時もあったし、不況のせいもあった。社内でのいじめや歪な労働条件が原因の時もあった。両親は定年退職し、他の兄弟(洋介の兄と弟)は別の場所で暮らしている。自分だけが、普通ではなかった。

 女性と付き合うこともなかったわけではない。大学生の時に初めて恋人ができ、大学を卒業してから何年か付き合いは続いたが、やがて環境の違いから別れてしまった。その後、当時勤めていた会社の受付の女性と知り合い付き合うことになるが、それは一ヶ月も続かなかった。付き合って一ヶ月後に、恋人は交通事故で死んでしまうのだ。それだけだと洋介が悲劇の主人公みたいに聞こえるが、その事故はシンプルなものではなかった。事故を起こした車を運転していたのは、恋人の浮気相手だった。浮気相手も同時に命を落とし、この世からいなくなった。洋介は純粋に哀しむことも、誰かを責める事も出来ず、この部屋で一ヶ月もの間、眠って過ごした。

 

 元々、積極的に自分から行動をするのが得意ではなかったが、だからといって、怠惰な人間というわけではなく、与えられた仕事に対しては堅実に取り組み、付き合った女性に対しては誠実に向き合った。普通でいたいだけだった。歯車の一つになり社会を動かし、流れる時代に流されて、たまにはおいしいご飯を食べて、誰かの死に泣いたり、逃れられない病気や天災に絶望したり憤ったり、そうやって普通に普通の人生を送りたかった。

 いつからか普通ではなくなっていた。

 洋介の中で、普通という言葉の形が変わっていった。普通に生きていける人間はトクベツなんだと思った。普通に生きていけない自分はトクベツでもなく、また、普通でもなかった。

 

 また、なめくじのいびきを聞いた。

 

 壁にはそれらしき陰は見えず、諦めて窓を閉めると、なめくじが窓にくっついてスライドしてきた。窓の向こう側についていると思い、驚かせようとして腹の辺りを小突いてみる。しかし、なめくじは窓の内側に張り付いていて、洋介の指で潰されてしまった。

 洋介は慌てることも驚くこともなく、ティッシュで指についたなめくじを拭き取り、ゴミ箱に捨てた。

 

 

 

 

(終)