2013.10.08

第二十八話 「位相」

 少女の鋭い指先がタンノの喉元にくい込む。

 タンノは少女の手を剥がそうとするが、締め上げる少女の指は壊れてしまった首輪みたいに固くなって、どうやっても剥がす事が出来なかった。

 呼吸と血液の流れが止まって意識が途絶えそうになったとき、限界のタイミングを見計らったように少女の力が抜ける。

 タンノは反動で思い切り息を飲み込んでしまい、うずくまって咳き込んだ。

 視界がテレビの砂嵐になったみたいに、ざらざらと掠れる。

 

「なんで電話に出ないのよ?」

 

 うずくまるタンノに向かって、少女は虎が吠えるみたいに声を荒げた。

 

 

 電話?

 こいつがさっきから電話をかけてきたエンドウカオリか?

 

 

 タンノは、ちょっと待ってくれ、と言おうとしたが呼吸が戻らず声が出せなかった。声の代わりに荒い息だけが何度も出た。

 少女に向かって身振りで伝えようとするが、少女はそれを無視してさらにタンノに詰め寄る。

 

「仕事が終わったら映画に行こうって言ってきたのはそっちでしょう? どうして来てくれないし、電話にも出ないのよ?」

 

 少女はタンノの胸ぐらを掴む。

 

 

 映画?

 映画の約束をほったらかしただけで、おれは首を絞められたのか?

 そもそもこいつは誰なんだ。

 何故俺はこの人と映画を観る事になっているんだ?

 

 

「エンドウカオリ……」

 

 タンノはようやく出て来た声で、少女の名前を呼んだ。

 

「なによ? 変な呼び方しないでよ」

 

 少女はまだタンノのシャツを掴んだままだ。

 タンノは呼吸を整えながら考える。

 

 呼び方……。

 なんだろう、エンドウ、エンドウさん、カオリ、カオリちゃん、カオリさん、カオちゃん、カオリン、カオリさま……。

 

 

「エンドウさん……」

 

 タンノは恐る恐る呼ぶ。

 下の名前で呼ぶのが正解だと思ったが、初めて見る人間に対して、タンノの中でそれは憚られた。

 少女は予想していた通り、思い切り不機嫌な顔を近づけてくる。

 

「ねえタンノ君、バカにしてるの? なんでそんな気持ち悪い呼び方で呼ぶわけ?」

 

 鼻先が触れてしまいそうなくらい近づいたエンドウカオリの肌は、誰にも踏まれていない粉雪みたいに白く美しかった。今までに嗅いだことのない薄甘い匂いがタンノの鼻をくすぐる。

 

「カオリ、でしょう」

 

 エンドウカオリは頭の悪い犬をしつけるようタンノに言う。

 

「カオリ」

 

 タンノは日本語を覚えたてのアフリカ人のように片言で繰り返した。

 

「それで、なんで今日は約束をすっぽかしたの? なんで待ち合わせの場所に来なかったの? なんで電話に出なかったの? わたし、ドトールで四時間も待ってたんだからね。ちゃんと説明してくれないと、ほんとうに許さないから」

 

 カオリはいつの間にかタンノに馬乗りになっていて、玄関の照明の逆光のせいでタンノからは表情がよく見えなくなっていた。

 

 

 俺はこの世界で、この女子高生と、どういう関係だったのだろう。

 一緒に映画に行くような仲だとすれば、恋人のようなものなのだろうか。

 犯罪だ。

 この世界の俺は今まで何をやっていたんだろう。

 それにしても……。

 

 

 それにしても、これは、いろいろやばい。

 おなかにエンドウカオリのぬくもりを感じながら、タンノは思った。

 気が緩んだ瞬間、頬に鋭い刺激が走る。

 

「ねえ、何ニヤけてるの? 状況わかってる? タンノ君、わたしにひどいことしたんだよ?」

 

 叩かれた頬がじんわりと熱くなる。

 あまりにも突然の衝撃だったので涙が出そうになった。

 

 そうだ、今は変なことを考えている場合じゃない。

 しかし、一体何から話せばいいのだろう。

 映画の事なんか知らないし、君の事なんかも知らない。

 そう正直に言ってしまったら、この子がさらに激昂するのはわかっている。

 でも、表面的に謝罪をしたとしても、納得できる理由も持ち合わせていないし、きっとこの子には見破られてしまう。

 

 

 どうしたものか、とタンノが言い淀んでいると、さっきまでの激しい口調を裏返したようにがらりと変えて、カオリが言う。

 

「ねえ、何かあったの? もしかして、わたしのこと、どうでも良くなった? イヤになった? キライになった? そんなことないよね? お願いだから、そういうのだけはやめてね、お願いだから……」

 

 カオリは力なくタンノの胸を叩いたあと、覆い被さるように抱きついた。

 彼女の肩が小さく震えているのが伝わってくる。漆黒の柔らかい髪の毛が、さっきまで熱を帯びていたタンノの頬に触れる。まだ少しだけ幼いカオリの鎖骨がタンノの身体に重なる。

 タンノは高校時代を思い出した。

 初めて真由美を抱きしめたときも、確かこんな感じだった。

 小さくて細くて、同じように震えていた。

 エンドウカオリが何者なのか、どういう関係なのかもわからないまま、タンノの中に愛おしさが溢れてきた。

 タンノは何も言わず、カオリの頭を撫でる。

 髪はすり抜けるようにタンノの指と指の間に流れてくる。

 

 

 いろいろ、やばい。

 

 

 そう思いながら、タンノは玄関で仰向けになったままエンドウカオリを抱きしめた。

 

 

 

 

 

(続)