2013.09.06

第二十三話 「行進と撤退」

 この世界に真由美がいる。

 

 

 タンノは唇を軽く噛んだ。

 雨粒の雫が腕を流れてコンクリートの地面に落ちる。

 タンノは何を思うべきか戸惑ったが、やがて心に大きな波のような喜びが溢れてきた。

 

 

 真由美がいる、存在している、会うことが出来る。

 どこにも消えていない、ちゃんとこの世界にいる。

 良かった、俺は何十年も真由美に会えないというわけではないのだ。

 

 

 大きな安堵を含んだ喜びに、タンノはしっかりと息を吸い、頬を膨らませてゆっくりと息を吐いた。深呼吸の間も、タンノはその二つの文字から目を離さなかった。

 しかし、大きな喜びの波が引いていくと、波によって崩壊した街が露になるみたいに、不安だけが心の一面に残った。

 

 

 真由美はおそらく、俺のことを知らない。

 おそらく、この世界では関係のない人間として存在している。

 おそらく、としか言えないが、ほとんどおそらく、そうなのだ。

 

 

 タンノはまた唇に歯をあてる。

 

 

 でも会いたい、顔を見たい。

 

 

 タンノは視線を止めたまま、真由美を思い出す。脳の裏に現れたのはやはり、向こう岸に立つ白いワンピース姿の彼女だった。あの時の真由美の姿や表情がこびりついたまま、タンノの頭からいつまでも剥がれなかった。

 タンノはかすかに望んでいた。

 自分の顔を見たら、元の世界と同じように何も言わず笑顔で迎え入れてくれるのではないだろうか。ただ真由美に関する情報やデータが消失していただけで、本人は何も変わらず自分のことを覚えてくれているのではないか。

 その可能性は先ほどの予想と同じく、ほとんどおそらくゼロであるはずだったが、真由美が存在する喜びから、タンノの心はさらに大きい希望を膨らませてしまった。

 

 

 何か話す事を考えてから会うべきだ。

 彼女にとって俺は本当に関係の無い人間なんだ。

 この世界では、同じ高校を出たかどうかもわからないんだぞ。

 

 

 頭の中でそう言いながらもタンノの足は真由美のいる201号室へと歩みを進めていた。

 

 

 止まれ、待て!

 

 行こう、すぐそこに真由美がいる!

 

 待て!

 

 会える、顔が見える!

 

 待て、止まれ!

 

 

 タンノは自分の中で言葉のやりとりを続けたが、感情が留まることはなかった。

 ドアの前に立って、ためらいもせずにインターホンを押す。まるで元の世界で真由美を訪れる時と同じような仕草で。

 しかし、ベルが不自然に大きく鳴り、触れた指先が微かに痺れた時、タンノは夢から覚めるように我に返った。昂っていた感情が逃げ出すように消えていくのがわかった。

 

 

 おい、鳴らしちゃったけど、どうするんだ?

 

 大丈夫だ、真由美は俺のことをわかってくれる。

 

 何を話すんだ?

 

 何も言わなくても大丈夫だ。

 

 何て言えばいい?

 

 大丈夫だ、きっと大丈夫。

 

 

 雨に濡れた身体が急に寒気を感じて動かなくなってしまった。

 はぁい、と足音とともに部屋の奥から彼女の声が聴こえた。

 元の世界とは確実に違う真由美が近づいてくる。

 大丈夫、と言っていたタンノの心はすぐに縮んでいった。

 

 

 真由美だ、ほんとうにそこにいるんだ。

 どうする、逃げるなら今だ。

 今会っても何を言えばいいんだ。

 ほとんどおそらく、俺は彼女と関係のない人間だ。

 そんな奴が急にアパートに来るなんておかしいだろう。

 仕切りなおして話を作ってから出直すべきだ。

 

 

 ハムスターが輪っかを転がすみたいにタンノが頭の中でぐるぐると考えていると、ドアのすぐ向こうで真由美が言う。

 

「はい、何でしょうか?」

 

 閉まったままのドアの前で、タンノは固まった。

 頭の中のハムスターは逃げて、残された輪っかだけが空回りしていた。

 

 

 

(続)