2013.08.05
トロイのクローゼット
放課後の校庭ではみんながサッカーを始めている頃だけど、僕にそんな事をしている余裕はなかった。
帰りの会が終わるとすぐに学校を後にして、早足に通学路を帰る。
今日もきっといないのだろうと思った。
アパートについて部屋の鍵穴に鍵をさす。
さすときの、じゃぎぎ、という音が僕はどうしても好きになれなかった。
中身が入っていない宝箱を開ける気持ちになるのだ。
冷たいドアノブを捻って重い鉄の板を引く。
昼間なのに部屋の光は少なく朧げで、重たいおじいさんの瞼の裏みたいだ。
停滞した空気から誰もいない気配が伝わってくる。
やっぱり今日もいないのだ。
鍵を乱暴に靴箱の上に置いて、ランドセルを放り投げる。
時計は午後二時を回りそうなとき。
そろそろだ、と思う。
僕の思考を感じ取ってか、タイマーのように電話が鳴り出す。
母親が居なくなって五日が経った。
今までも一日とか二日とか家に帰ってこないことがあったけど、今回は長過ぎる。
僕と母親は二人暮らしで、父親だった人は僕が二歳の時に離婚して以来、一度も姿を見せていないらしい。
「どっかで死んでるのよ、死んだ人間のことより生きてる人間のことを考えなさい」と、母親は言った。
僕は母親の機嫌の良いときを見た事がない。
生まれてから、一度も。
テレビ番組などを見て笑う事はあるけど空っぽの笑い声で、テレビから視線が外れるとすぐに顔の筋肉が引き締まって険しい表情になる。
腫れぼったい一重まぶたのせいかもしれない。
年の割りに染みやしわが多く、髪の毛もいつも束ねていて洒落っ気というものがまったくなく、実際の年よりも二十歳くらい老けてるように見えた。
女手ひとつで僕を育ててくれているのだからしょうがない、感謝するべきなんだ、と自分に言い聞かせたけど、それでも母親を包む暗いオーラは拒絶せざるを得なかった。
母親がいなくなってから三日後、電話が鳴るようになった。
大体、僕が学校から帰ってきてから必ず一時間以内に鳴る。
どこかで監視でもしているんじゃないかと思うくらい正確に。
そして、電話はそれから一時間間隔で六回くらい続く。
どうせ良くない内容の電話だろうと思い、電話をとらずにベルの音をずっと聞いていた。
冷蔵庫からプリンを取り出し、ベランダの桟に腰掛けて食べる。
母親がいなくなってから家ではプリンしか食べていない。
学校の給食とプリンだけでこの五日間やりすごしているけど、そろそろ限界だ、キツい。
明日から土日になって、給食が食べられなくなる。
家中を探したけど、現金の類は一切残っていなかった。
午後六時、本日五回目の電話が鳴る。
いい加減疲れてきてしまったのと、いろんなものが面倒になってきて電話をとった。
「はい」
「なんで出ないの」
「え?」
「なんで出ないの」
母親の声は小さく、遠かった。
怒っているわけでも苛立っているわけでもない、無表情な声に嫌な感じがした。
「母さん、いまどこ?」
「……」
「もしもし?」
「……」
無言の奥で雑音が聞こえる。車の音や信号の音声が聞こえるから、多分外にいるのだろう。
「お母さん、やめたから」
母親の声は固い針金みたいだった。
母親が自分のことをお母さんという時は、あまり精神状態が良くない時だ。
自分が母親であることを言い聞かせてるみたいに思えた。
「やめたって、何を?」
「あんたのこと、もうやめたから」
「何言ってんの?」
母親の言いたい事はなんとなくわかった。
僕のことをやめたのだ。
明確なイメージと不鮮明な未来が一度に頭の中に浮かんだ。
僕と母親はもう会う事はない、僕はこれから一人になる、何故そうなったのかはわからないが、母親は諦めた。
いつかこんな日が来ると思っていた。
もしかしたら望んでいたかもしれない。
陰鬱な母親と離れる事を。
僕の思考は落ち着いていたけど、感情は子供だった。
涙が溢れ出し電話口で泣き叫んだ。
なんで、いやだよ、いまどこにいるの、きらないで、なにかわるいことしたならなおすからいって、どうするの、どうすればいいの、がっこうとか、たべものとか、きゅうしょくとプリンしかたべてないんだよ、いつかもだよ、なんで、いやだよ、やめて、そんなこといわないでよ、おかあさん!おかあさん!おかあさん!
母親は僕の声を聞いていないみたいな口調で淡々と話した。
これから二日以内に引っ越し業者が家具を引き取りにくる事、アパートを引き払うから月末迄に出ていけということ、富山にある親戚の家に行けということ、金はクローゼットの二番目の抽き出しの奥にいくらか残っているということ。
話を聞いているうちに僕の感情は体温を失うみたいに冷えきっていった。
鼻をすすって返事をした。
じゃあね、と言って母親が電話を切ると、その場に座り込み、大声でまた泣いた。
誰かが声を聞いて助けに来てくれないかと思ったけど、そのうち泣くのも疲れてきた。
腹が減っては泣く事もできなかった。
クローゼットの二番目の抽き出しを開けると、奥の方に子供用の財布があった。
財布の中には一万円と二千円が入っていた。
財布は僕のものだった。
小学校に入学したときに買ってもらったもので、気付いたらなくなっていたものだった。
僕は台所から一番大きい包丁を取り出し、毛布で身体を包んでクローゼットの中に身を隠した。
このまま隠れていれば、引っ越し業者が母親の元に運んでくれると思ったからだ。
包丁は、別に母親をどうこうするというわけではなく、僕の心だ。
何も持たずに行ったら、母親は僕を突き返すだろう。
僕が本気なのだという意志を明らかにするためのアイテムだ。
クローゼットの戸を閉めると自分の吐息と心臓の音が聞こえてくる。
毛布はあるけどクローゼットの中は冷たくて、どんなに丸くなっても足の先は冷えたままだった。
狭い場所でうずくまっているせいなのか、緊張や興奮が薄くなっていくのがわかった。
それでも、一睡もしないまま何時間も暗闇を眺め続けた。
次の日、引っ越し業者が来た。
戸を開けられるかと思ってひやひやしたけど、そのまま梱包をされて運ばれた。
やけに重いな、という声が聴こえたのでやばいと思ったけど、面倒くさがりな業者だったのか、戸を開けて中を確認することはなかった。
ゆらゆらと揺れる真っ暗な空間にいるのは、遊んでるみたいで少し楽しかった。
トラックに乗せられてしばらくすると、エンジンがかかる。
少し冒険じみていたのと母親に会いに行くことで、心はわくわくしていた。
道路を走りだすと、トラックは心地よく揺れ始めた。
包丁をしっかりと胸に握って、毛布を改めて目を閉じた。
昨日眠れなかった睡魔が舞台の幕を下ろすみたいに垂れていく。
がたがたと家具の揺れる音が鳴り続く。
良い事など一つもないのに、新しい世界に行くみたいで嬉しくなった。
(終)
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